🔍 古語拾遺の完全訳
こちらの記事は、古代日本の、ありし日の姿を伝える『魏志倭人伝』の訳 のページと、相互補完する内容になっています。
『邪馬台国の場所』を特定する試みだけでなく、『第2代天皇』の謎についても語っています。
歴史の誤解を解くやり方を、どうぞご覧になってください。
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【原文と直訳】(邪馬台国の場所)
至於纏向日代朝 令 日本武命 征討東夷
仍 枉道詣 伊勢神宮 辭見 倭姫命 以 草薙釼 授 日本武命 而教曰
慎莫怠也
纏向朝の日王の代に 日本武命に東夷の征討を命ず
仍って 伊勢神宮に枉道詣でし 倭姫命に辞を述べ 草薙釼を日本武命に授け 教えて曰く
「慎んで怠るなかれ」
日本武命 既平東虜 還至 尾張国 納宮簀媛 淹留踰月
解釼置宅 徒行登胆吹山 中毒而薨
日本武命は 東の虜を平定し 尾張国に還り 宮簀媛を納め 一月を超えて留まり
釼を宅に置き 徒歩で胆吹山に登り 中毒死する
その草薙釼は 今 尾張国の熱田社にあり 未だ礼典には叙されず
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なんか表現が古くありません?
私の頭では、意味がよくわからないです…… |
このままでは、よくわかりませんよね?
以下は、【原文】の現代訳バージョンになります。
『
古語拾遺』第3部 (邪馬台国の場所)
「従五位下」官位
斎部宿禰廣成 (奈良・平安時代)
纏向朝の 卑弥呼女王 の御時、日本の英雄である日本武尊は、東の地域を征服するという、生死をかける大任を受けました。
出発前には、伊勢神宮にて倭姫命(卑弥呼)に別れを告げ、彼女から草薙の剣を託されました。
倭姫命は、日本武尊に向けて「慎重に行動しなはれ」と天の忠告をなされました。
東方の敵を御討ちになった後、日本武尊は無事、尾張国に帰還され、宮簀媛とご結婚をなされました。
尾張国にて一ヶ月以上を御過ごしになり、その間、草薙の剣は御自宅に置かれておりました。
しかしながら、伊吹山に御登山された際に毒にあたり、悲しくも亡くなられてしまいました。
現在、その草薙の剣は尾張国の熱田神宮に保管されております。しかし、公式の儀式には使用されておりません。
📼 作者の斎部廣成 一人語り風
纏向とは、奈良県桜井市にある古代の遺跡名で、日本の弥生時代後期から古墳時代にかけての重要な遺跡でありまして、今回出てきた『日代朝』とは、卑弥呼様(女王・日巫女)の治世のことを指すのであります。
卑弥呼様の治世の都がこの地ですから、日本の歴史最大の謎とされてきた『邪馬台国』の場所はここでございますな。
今回の書では、纏向日代朝
(卑弥呼様の治世)の時代に、日本の英雄である
日本武尊が、東の地域を征服する任務を受けたとありますな。
彼は出発する前に、伊勢神宮を訪れて祈祷後
倭姫命 に別れを告げ、倭姫命から草薙の剣を託されました。
……とありますが、命がけの任務ゆえ
纏向宮の
卑弥呼女王とともに伊勢で真剣に祈祷し
女王は
日本武尊に慎重に行動するように忠告したとの記録が残りますな。
🎓 『古語拾遺』を理解する、分かりやすい解説
纏向王朝は、考古学的調査によると、弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡とされているので、私が『神話』から時代を割り出していた、年表の時代考証とも、やはり一致しています。
↳ 画像元……纒向遺跡 国史跡
今回の書は、初代の神武天皇が崩御されてから、それほど期間の経ってない時期で、卑弥呼がまだ生きていた時代なので……
〝邪馬台国の女王〟とは、第2代天皇〝綏靖天皇〟のことでもあるのです。
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えっ? 『日本書紀』にはテキトーな嘘が書かれて
るってこと? 口から出任せ言ってない? |
今から言うことは、世の中の学説と全く違う主張になります。
しかし、今までも数々の〝日本の歴史の謎〟を見抜いてきた推理力が、今回も気づいてしまったのです。
『魏志倭人伝』の卑弥呼の描写と、第2代天皇〝綏靖天皇〟を見比べてみると、偶然とは思えない、奇妙な一致が……
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🎓 卑弥呼女王は第2代天皇だった?
厳密に言うと、ちょっとだけ違います。
天皇だけど、天皇ではなかった……
どういうことか? というと『天皇』という称号は、元々は『神武天皇』のために作られた言葉で、元の発音は『天皇』
この『天皇』は『神武天皇』に対する特別な敬意を表して、『神武天皇』一代だけ名乗るはずの称号だったのです。
ですから、二代目の王になった卑弥呼は、皇女の巫女時代の呼び名、日巫女にちなんで、貴族からは『日王』と呼ばれていた。
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ところが、後継の王の誰かが、『神武天皇』にあやかって『天皇』という特別な称号を欲しがった。
だから、統一感を持たせるために、それまでの天皇の名も、過去に遡って『〇〇天皇』と、それぞれ後から割り振ることになった。
その証拠に〝綏靖天皇〟の文字の意味は、
この言葉は、古代日本で政治や社会の文脈で使用されることも多く、その場合の意味は、こう変わります。
国家が内乱や混乱に遭遇の後、秩序を回復し平和をもたらした活躍
そのことを「綏靖」と書くわけですが……
……あれ? 『魏志倭人伝』で言われていた卑弥呼の活躍と一致する名前ですね!
『魏志倭人伝』
其國本亦以 男子爲王 住七八十年
倭國亂 相攻伐 歷年
乃共立一 女子爲王 名曰 卑彌呼
その国は本来 男性が天王なりし 七八十まで生きる
王倒れし後 倭国乱れ 年月を経て争い給う
遂には女性 卑弥呼と申す者 王に立てり
……その後、その女王様は、神霊力を駆使しながら、急速に国を立て直してしまった、
このとき、父の後を継いだ卑弥呼は、卑弥呼天皇ではなく、通称『日王』と呼ばれていたのです。
皇女の巫女時代の呼び名、日巫女から来るものです。
ですから、『古語拾遺』の今回の書では、纏向の日王朝の代のことを指して〝纏向日代朝〟という表現になってるわけです。
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このころの中国は、魏・蜀・呉 の三国に分裂していた時期です。
そのうちの『魏国』の王が、日本の『新王朝』誕生のため使節団を派遣し、それらの使節団が日巫女新女王のことを、
この女王様は、卑しい身分の方々からも尊敬されていて、人々が弥栄となるよう、神と交信をしながら政治をしていて、人々はその女王のことを『ヒミコ』と発音していた
このように解釈し、魏志の倭人伝の章に、伊邪那岐(神武天皇)から引き継いだ『邪馬台国』のことを記したのです。
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『邪馬台国』の語源は、〝1つ前の記事〟で説明したとおり
【邪馬台国】の語源
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発音を見ると?……大倭日高見国 → 倭大国 →「邪馬台国」
字を見ると?……伊邪那岐の馬(天皇軍)を率いる 大国
今までは『邪馬台国』は地方小国とイメージされていたようですが、どこをどう間違ったらそのような解釈になるのか? 実際には、王朝同士で使節団をやりとりしたり、国の輸出入の監視や、離島監視も含む、中央政府そのものだったのです。
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🎓 卑弥呼女王が第2代天皇だった証拠
卑弥呼女王自身が天皇だった証拠は、今回の『古語拾遺』の書からも見て取れます。
東の地域の征服に向かう日本武尊は皇族で、日本の古代の英雄。
天皇家に縁があります。
しかも、『神武天皇』が火山噴火の後に建てた〝笠縫いの伊勢分社〟で神宝として奉納していたはずの『草薙の剣』を、〝戦闘のお守りの霊剣〟として勝手に、日本武尊に渡せちゃうほどの権力者と言えば、〝時の天皇本人〟しかいないわけです。
これで、『倭姫命 = 卑弥呼』を指すことが分かり、その時点での卑弥呼は、女王と呼ばれていましたから、第2代天皇〝綏靖天皇〟なのがわかります。
歴史の謎は、このように解いていきます。
正しく推理をすれば、歴史の糸は一本の太い線となり、『他の文献の記述』とも一致してくるようになる。
歴史の謎を解くのは、国語力ではなく、推理力なのです。
『古語拾遺』第3部 住吉大神